大判例

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東京高等裁判所 昭和28年(う)4148号 判決

控訴人 原審検察官

被告人 池田順次 外四名

弁護人 大蔵繁彦

検察官 中条義英

主文

本件各控訴はいずれもこれを棄却する。

理由

本件控訴の趣旨並びにこれに対する弁護人の答弁は、この判決の末尾に添附した検事小山田覚直名義の各控訴趣意書竝びに弁護人大蔵敏彦名義の答弁書に記載する通りである。これに対して次のように判断する。

いわゆる示威行進その他公衆の集団的示威運動は、憲法第二十一条の保障する思想表現の自由に関する基本的人権の一種と解すべきものであるが、思想表現の自由といえども、絶対無制限のものではなく、公共の福祉に反しない限度においてのみ、これを保障せられるに過ぎないこと、従つて、地方公共団体は、その地方の公共の秩序を維持し、住民及び滞在者の安全、健康及び福祉を保持するためには、その区域内で行われる示威運動に対しても、ある程度の規制を加え得るものであることは、まことに検察官所論の通りである。けれども思想表現の自由は、わが憲法が保障する基本的人権のうちでも、最も重要なものの一つであるから、その規制は、真にやむを得ない場合に限り、しかもその規制の方法は、憲法の精神に背くことのないように、慎重になされなければならないことは、多く説明を要しないところである。

而して、現在、わが国大多数の都府県や一部の市や町において、集会、集団示威行進等について、それぞれ条例をもつて、ある程度の規制を加えていることは、当裁判所に顕著なところであるが、これ等の条例を通覧すると、各地方公共団体が、示威運動等を規制するため採用した方法は、大別して届出制と、許可制の二とすることができる。届出制とは、示威運動等の主催者に対し、運動開催の一定時間以前に、その運動の具体的内容を公安委員会に届出させようとするものであつて、公安委員会において検討の結果、その地方の公共の福祉に反するものと認めれば、その運動に対し制限を加えることができるという制度であるから、主催者に対し事前届出という制約を加えるとはいえ、それは、示威運動を行うについて実質上の抑制とはならない場合が多いと解し得られるから、大衆の集団運動を利用しようとする一部破壊分子活躍の懸念が絶無であるとはいえない現在の社会情勢の下にあつては、この程度の規制はやむを得ないものとして容認されなければならないものである。次に、許可制とは、一言にしていえば、示威運動は公安委員会の許可がなければ行うことができないという趣旨のものであるが、かかる方式は示威運動に対する事前規制の方法として、果して許さるべきものであろうか。一般に、「許可」というときは、全面的禁止を前提とし、ある特定の場合に限つてその禁止を解除する意義に用いられるのが通例であるが、示威運動規制に関する条例が、もし叙上のような趣旨の下に、「許可」制を設けたとするならば、憲法において保障された重要な基本的人権を、一片の条例で、一般的に禁止はく奪するものであるから、かかることは到底許さるべきものではないのは論を俟たないところである。けれども、許可申請を受けた公安委員会は、原則として許可することが義務ずけられ、不許可の場合が極めて限定されているような場合には、名は許可と称するも、その実質は、申請に対して、示威運動を自由に行う権能を新たに附与するという趣旨ではなく、示威運動の申請に対し、公の権威を以て、その適否を確認する行為に過ぎないと解すべきものであるから、その本質に於て、さきに述べた届出制と大して差異は存しないものというべきである。従つて、その立法技術上の巧拙は別として、いわゆる許可制を採用した条例は、総て違憲であると速断するのは早計であつて、その合憲なりや否やは、その条例の定めている、規制対象の範囲、許可手続の難易、許否決定基準の定め方等当該条例の全趣旨を勘按してこれを決定しなければならないのである。

そこで、本件で問題になつている昭和二十三年静岡県条例第七四号示威運動取締に関する条例(以下静岡県条例と略称する)をみると、同条例は、その第一条において、この条例は警察を維持する市町村の区域において行われる示威行進その他の公衆の集団的示威運動に対して公安を保持することによつて一般公衆の自由と権利を保障することを目的とする旨を明かにしたうえ、第二条で「示威運動にして道路を徒歩又は車馬をもつて行進又は占有しようとする者は、所轄の市町村の公安委員会の許可を得なければこれを行うことができない」と定めているから、事前規制の方法として、いわゆる許可制を採用していることが明らかである。従つて、その合憲なりや否やは、さきに説示したところに従い、同条例の採用した許可制の内容が、示威運動に対する事前規制の方法として、果して必要やむを得ないものであるかどうかによつて決定せらるべきものである。よつて以下順次検討してみるに、

(一)  同条例は、まず規制の対象たる示威運動について、「示威運動にして道路を徒歩又は車馬をもつて行進又は占有しようとするもの」としている。換言すれば、取締の対象を、道路上における示威運動のみに限定し、その他の場所に及んでいないこと、(第一条、第二条)

(二)  その許可申請の手続は、主催者又は責任者から示威運動を行う時刻の七十二時間前までに所轄の警察署を経由して当該公安委員会に書面をもつてなすべく、示威運動の行われる地域が二以上の市町村の区域にわたるときは、前項の許可申請は、主たる開催地の所轄の警察署を経由すれば足りる(第三条)とされ、その申請書記載事項も格別むずかしいことを要求しているものではない(第四条)から、その許可申請手続は、示威運動実施者に対し無理を強いているとは認められないこと

(三)  公安委員会はその示威運動が公安を害する惧れかないと認める場合は許可を与えなければならない。(第五条第一項)としていること

(四)  もし、公安委員会が許可申請を却下した場合には、公安委員会は直ちにその旨及び理由を詳細に当該市町村議会の議長に報告しなければならない。議長はこれを次の会議において、議会に報告しなければならない。(第五条第二項)と定めているばかりでなく、

(五)  「この条例は第二条に規定する示威運動を除き、公の集会を禁止もしくは制限し又は公安委員会、警察吏員若しくは地方公共団体の職員に対し、公衆の会合、政治活動、プラカード出版物その他の文書図画の監督、検閲の権限を与えるものではない」(第九条)旨を明かにして、同条例運用の万全を期していること

などを併せ考えると、本件静岡県条例は、検察官主張のように合憲としてその効力を認めるのが相当であるようにもみえるのである。

しかしながら、さきにも判示したように、思想表現の自由は憲法で保障された重要な基本的人権の一つであるから、その制限は、公共の福祉という見地から見て、真に必要かつやむを得ないと認められる限度においてのみ容認せらるべきものであり、その制限を規定した条例の合憲なりや否やは、極めて慎重に決定されなければならないから、さらに一歩を進めて審究するに、

(一) 静岡県条例が規制の対象としている示威運動の範囲は、さきにも一言したように「道路」上の示威運動に限られ、その他の公共の場所におけるものを包含していないから、一見、取締の対象たる示威運動は大いに限定されているようにみえるが、ひるがえつて考えると、それは、いやしくも道路上における示威運動である限り、一切これを包含し、特に除外例を設けていないことを注意しなければならない。換言すれば、道路上で行われる示威運動は、その性質如何を問わず一切公安委員会の許可がなければ実施することができないという趣旨であるところ、元来示威運動なるものは、道路を進行するのを常とすることから考えると、その規制の対象は相当広汎にわたるものといわねばならない。検察官は、「静岡県条例は、他の条例のように、その条例自体の中に除外例を設けていないけれども、その第七条に基き、当該公安委員会の告示により除外例を設けることとし、現に静岡市公安委員会告示第九号第二条は(1) 冠婚葬祭神社仏閣の例祭その他宗教的団体の行事(2) スポーツ競技その他体育運動(3) 官公庁公共団体によつて行われる行事(4) 学校当局により実施される学生、生徒、児童の隊列(5) 前各号の他示威的行動に亘らない行進及び集会は公安委員会の許可を必要としない旨を明かにしているから、同条例の規制の対象は無制限ではない。」と主張しているが、本件条例の対象は示威運動そのものであるところ、右に列挙された集会或は行進は、本件条例にいわゆる示威運動ではないから、これらは右のような規定をまつまでもなく、当然実施が自由なものであり、同条例とは全く関係のないものであることが明かである。従つて前記静岡市公安委員会告示第二条は、本件条例に関する限り、全く意味のない規定であつて、これをもつて、本条例の規制対象の範囲を限定した除外例であるとすることのできないのは勿論である。即ち、本件条例が規制しようとする示威運動は、道路上の総ての示威運動に及び、殆ど無制限であると断ぜざるを得ないのであるが、かように規制の対象が広汎であるということは、それだけ国民の示威運動に関する自由が一行政機関たる公安委員会の掌中に握られる範図が広くなることであつて、時に公共の福祉の名の下に、正当な示威運動までが禁止されるかもしれない可能性もしくは危険性が増大されることは理の当然である。

(二)  次に、静岡県条例所定の許可申請手続の当否について再検するに、さきにも明かにしたように、その許可申請手続は、比較的簡単であつて、「七十二時間前」という時間的制限も、警察当局の警備計画の立案、実施等に要する時間から考えると、またやむをえないものと認められるから、この点に関する規定は必ずしも不当とはいい難い。けれども、ここに看過できないのは、静岡県条例には、公安委員会が、その受理した許可申請に対して、いつまでに許否を決しなければならないかという点について、全然規定を欠いていることである。さきにも言及したように、ここにいわゆる「許可」は一般の行政処分のそれとは異り、一種の確認行為とみるべきものであり、原則として許可が義務ずけられ、不許可は極めて例外的の場合にのみ限らるべきものであると解してこそはじめてその存在が許される性質のものであることを思えば、静岡県条例が一方に於て、その規制の対象を広く道路上の示威運動全部に及ぼして許可申請を要求しておきながら、他方に於てこれに対する公安委員会の許否決定について全然時間的拘束を設けていないのは、甚だ大きな欠陥といわねばならない。示威運動の主催者は、運動実施についてはある程度の準備時間を必要とすることは明白であるから、七十二時間前に公安委員会に提出した許可申請に対し、同運動実施直前に許可されても、実施上実施不能に陥ることもあり得ようし、また極端な場合には、公安委員会は好ましからざる申請で、しかも不許可の理由に之しいものについては、実施予定当日までも許否を決しないで放置することさえ考えられ得るところである。例えば、かの新潟県、昭和二十四年第四号行列行進、集団示威運動に関する条例第四条は、公安委員会が許否を許すべき時限を、運動開始日時の二十四時間前までと限定し、それまでにその意思表示をしないときは、許可があつたものとして行動することができる旨を明白に規定しているが、静岡県条例がこの点について全然配慮を欠き、何等の規定を設けていないのは、いわゆる「許可制」の本質に関する考え方にも影響を及ぼし、同条例の合憲性を疑わしめる一つの資料となるものといわねばならない。

(三)  さらに、進んで、示威運動の許否を決すべき基準の定め方の適否について検討してみるに、元来国民の基本的人権を制限しようとするいわゆる「公共の福祉」という理念は、その内容が一定せず、甚だ流動的な観念であるから、社会情勢の変化により、多少の変動を生ずることはやむを得ないが、国民の基本的人権の尊重ということは、民主政治の基盤であるということから考えるとこれを制限しようとする「公共の福祉」という観念はなるべく厳格に解すべく、濫りにその内容を拡大してはならないのは当然である。かかる見地に立ち、現下の諸般の社会情勢を斟酌して考えると、いわゆる示威運動は、公共の福祉に反するときはこれを制限することができるが、ここに「公共の福祉に反する」とは、当該の運動の実施が、「公共にさし迫つた危険を及ぼすことが明かである」と認められる場合をいうものと解するのを相当とする。従つてこの程度に達しないもの、即ち単に漠然たる「公共に危険を及ぼす惧れ」があると思われるに過ぎないような場合においては、未だその示威運動を公共の福祉に反するものとして禁止することはできないものといわねばならない。検察官は「一部破壊的分子の煽動等により、当初から公安を害し、一般公衆に対し直接危害を及ぼす危険が合理的に判断して明かである場合においても事前にその禁止、制限をなし得ないのは不都合である。」と主張しているが、所論のような場合は、まさに「公共にさし迫つた危険を及ぼすことが明かである場合」に該当するから、公安委員会は事前に規制を加え得ることは勿論であつて、示威運動許否の基準について前叙のような見解をとつても、毫も所論のような不当の結果は発生しないのである。

然るところ、静岡県条例は、第五条第一項において、「公安委員会は示威運動が公安を害する惧れがないと認める場合は許可しなければならない」と定めているから、許否決定の基準は「公安を害する惧れ」の有無にあることが明かである。けれども「公安を害する惧れ」ということは甚だ漠然たる観念であるから、かかる事実の有無をもつて示威運動許否決定の基準とすることは、重要な基本的人権を制限する方式としてはあまりに概括的に過ぎ、原判決も指摘しているように、公安委員会の考え方によつては、本来許さるべき示威運動も許されないことになるおそれがあり、ひいては憲法上認められた思想表現の自由を不当に制限する結果を招来する危険性なしとしないのである。この点に関し他の地方公共団体の条例が、或は「公共の安寧を保持する上に直接の危険を及ぼすと明らかに認められる場合」(東京都、岩手、茨城、長野等の各県、及び弘前、神戸、福知山、字治、広島、高松等の各市の例)、或は「公共の安全を危険ならしめるような事態をひき起すことが明瞭である場合」(愛知、石川、岐阜、三重等の各県及び、岡山、米子等の各市の例)、或は「公共の安全に差迫つた危険を及ぼすことが明かである場合」(滋賀県等及び大阪、堺、岸和田、布施、豊中、池田、吹田、泉、大洋、高槻、貝塚、守口、牧方、茨木、八尾、泉佐野、富田、林等の各市の例)、或は「公衆の生命、身体自由又は財産に対して直接の危険を及ぼすと明かに認められる場合」(京都市等の例)といずれも略々同趣旨の規定を設け不許可となるべき場合について、極めて厳格な制限を附しているのは決して故なしとはしないのである。検察官は、右に列挙した各条例の規定は、本件で問題になつている静岡県条例にいわゆる「公安を害する惧れある場合」というのと、修辞上の相違があるのみであつて、両者はその本質を異にするものではなく、原判決は用語の枝葉未節に把われたものであると批難しているが、単に漠然たる「公共を害する惧れ」というのと、さきに列挙した各条例の規定とは明らかにその趣旨内容を異にしているのであつて、これを目して単なる修辞上の相違に過ぎずとする所論は、まさに烏鷺同色の弁というも過言ではなく、到底これを採用することはできない。

以上説示したところを綜合して考えると、静岡県条例は、示威運動規制の方法として、道路上で行われる示威運動にはすべて公安委員会の許可を要求し、その許否の決定基準は漠然たる「公安を害する惧れ」の有無という点に置いて居るばかりでなく、公安委員会の許否決定については、何等時間的拘束を加えていないことが明かであつて、かくの如きは、憲法で認められた思想表現の自由を制限する方法としてはあまりに広汎かつ概括的に過ぎ、少くとも現下の社会情勢の下にあつては、公共の福祉を維持するために、必要やむを得ない限度を超えたものと断定せざるを得ず、従つて同条例がその第六条において、同第二条所定の公安委員会の許可なくして示威運動を行つたものを処罰する旨規定して居る限りにおいて、右条例は憲法に違反するものといわねばならない。検察官の援用する各高等裁判所の判決は、いずれも本件とその内容を異にする他の地方団体の条例に関するものであつて、本件には適切ではなく、その他所論に徴しても、原判決には所論のように、法令の解釈適用を誤つたところは認められない。

よつて検察官の本件控訴は、いずれもその理由がないものと認め、刑事訴訟法第三百九十六条に則り主文のように判決する。

(裁判長判事 久礼田益喜 判事 武田軍治 判事 下関忠義)

検察官の被告人池田順二外三名に対する控訴趣意

原判決には法令の解釈従つてその適用に誤りがあり、その誤りは判決に影響を及ぼすこと明かである。即ち原判決は「被告人等は共謀の上、昭和二十六年五月一日午前十一時二十分頃、静岡市公安委員会の許可を受けないで、同市追手町静岡コート入口前から市役所前までの間の道路を多数の者とともに示威行進した。」との本件公訴事実につき、昭和二十三年静岡県条例第七十四号(示威運動取締に関する条例)(以下本県条例と略称する)を違憲と判断し、以て爾余の判断を俟つまでもなく、本件は罪とならないものとして無罪の判決をした。然し、本件条例に毫も違憲の要素のないことは以下の理由によつて、明かであり原判決はその判断の根本に於て誤りを犯し到底破棄を免れないものと思料する。

(一) 憲法第二十一条所定の集会、結社及び言論出版その他一切の表現の自由が国民の基本的人権として尊重せらるべく、示威行進等の示威運動が右に所謂集会に含まれる観念として原則的にその自由を保障せらるべきことは論議の余地のないことである。然し、憲法の保障する、之等表現の自由と雖も、公共の福祉のために必要且已むを得ない限度に於て之を制限することが許さるべきことは憲法第十二条、同第十三条の規定に照しても当然の事理であつて、このことは原判決自体もその理由冒頭に於て「この示威運動とても、公共の福祉に反しない限度においてのみその自由が保障されているものと解すべきである。故に例えば示威運動を行う結果当然に公共に害を及ぼすこととなる場合更に極論すれば、公共に害を及ぼす目的で行う場合は、まさに自由の濫用であるから、公共の福祉のためにこれを規制することはやむを得ないところであつて、その限度においてはこれを制限することが許さるものといわなければならない。」として明かに認めるところである。

ところで集団示威行進等の示威運動はその性質上場所の如何を問わず、所謂群衆心理に駆られて、ややもすれば適正な限度を失い自由の濫用に陥り易く、公共の秩序を紊乱する結果に陥る危険の多いことは既往の事例に徴して明かなところであつて、特に之が道路その他公共の場所で行はれる場合、多数人の勢威ある集団を無制限に放任するときは、一般公衆の権利自由を侵害する虞れが甚しいと言はねばならないから、之を事前に規制し、公共の秩序の紊乱によつて、一般公衆の権利、自由に不当の侵害を加えることのないようにすることが必要且つ已むを得ないことは前記公共の福祉の見地から極めて明かであると言はねばならない。所謂公安条例はこの意味に於て、集団的示威運動に対し、事前に適正な規制を与えんとするものであつて、本県条例も亦その第一条に於て、「この条例は警察を維持する市町村(以下市町村と云う)の区域内に行はれる示威行進その他の公衆の集団的示威運動(以下示威運動と云う)に対して公安を保持することによつて一般公衆の自由と権利を保障することを目当とする」としてこの趣旨を明かにしているところである。

(二) 公安条例が、示威運動に対し事前の規制をするに当つて所謂「届出制」と「許可制」とがあることは原判決摘示の通りである。而して従来公安条例の合憲性如何が裁判上の重要争点となつた事例は少くないようであるが先づ「届出制」について見るに、(イ)佐賀県条例についての福岡高裁昭和二六、三、三一判決、(ロ)埼玉県条例についての東京高裁昭和二六、一二、六判決、〈ハ〉佐賀県条例についての福岡高裁昭和二七、一〇、二判決等之を合憲とする判決が支配的であつて原判決も亦之については「届出をしなければならないと言う制約はあるにしても、示威運動を行うについて実質上の抑制とならない場合が多いと解し得る。」と判示している。

然るに「許可制」につき、原判決は「問題がある」とし、「この場合には究極において本来許さるべき運動をも抑制することとなるような規制であるかどうかによつて結論を異にするのであつて、この区別は、規制の基準の定め方によるものと解する」として明かに疑義を表明している。

然し斎しく「許可制」をとる各地方公共団体の公安条例について、夫々右に所謂「規制の基準」たるべき規定の用語につきその態様を異にし乍らも、判例の大勢は之を合憲とするにあることは顕著な事実であつて、例えば、(イ)東京都条例についての東京高裁昭和二七、六、一〇判決、(ロ)徳山市条例についての広島高裁昭和二六、一二、四判決、(ハ)滋賀県条例についての大阪高裁昭和二七、四、一五判決、(ニ)福井県条例についての名古屋高裁金沢支部昭和二八、八、二二判決、(ホ)新潟県条例についての東京高等昭和二八、一一、三〇判決は何れも「許可制」を採る右各公安条例につきその許可を条件とする制限が、公共の福祉のため必要且つやむを得ない限度を逸脱しないものとしてその合憲性を明示しているのである。「許可制」を採る公安条例の中、昭和二六、一〇、二六京都地裁判決は、京都市条例につき之を違憲としたが、昭和二八、一一、一七大阪高裁判決は同条例につき、「右条例は集会、集団行進及び集団示威運動等の表現の自由を一般原則的に否定禁止しておいて、公安委員会の許可によつてこれを解除して自由に行う権利を得せしめるというのではなくみだりに表現の自由に干渉せずこれを制限しないことを前提とし、ただ公共の安寧秩序を保持する建前から公安委員会の許可を受けるべき場合を定め、しかも公共の福祉を保護する上において必要且やむを得ないと認められる場合でなければ許可の申請を不許可とし又は許可を取消すことができず又許可に条件をつけ又はその条件を変更することができないものとし以て右表現の自由に公共の福祉のため必要且やむを得ない最少限度における制限を附したに過ぎないものと解するのを相当とする。そして憲法第二十一条の保障する表現の自由と雖も公共の福祉のため必要且つやむを得ない範囲において制限を受けることは同法第十二条第十三条に徴し明白であるから叙上説明するところにより右条例が憲法に違反する事項を規定し違憲のものであるとは到底みることができない。公安委員会の許可にかからしめることを目して取締の便宜に重点をおき表現の自由を不当に制限しているものとなす原判決の見解には左袒し得ない」として合憲性を明かにし、又広島市条例を違憲とした昭和二七、一二、一〇広島地裁判決に対し昭和二八、九、一五広島高裁判決は右判決を破棄してその合憲性を明かに判示した。即ち原判決が「問題がある」とする「許可性」の公安条例は各地方公共団体によつて夫々規定の用語は之を異にしても何れも公共の安寧秩序を侵害することの憂慮されるような一定の場合の外は原則的に届出られた示威運動を許可すべきことを明示し、即ち「許可」と云うも、実は所轄公安委員会の恣意によつて許可申請に対し示威運動を行う権能を特別に例外的に付与すると言うものではなくて、公の権威による弁別判定と確認を求めるための一の手続的のものにすぎない点から、公共の福祉のための制限として必要且つやむを得ない限度を何等逸脱するものでないことが明かにせられたと考えられるのである。(前掲昭和二八、九、一五広島高裁判決参照)更に進んで現下の社会情勢の下に於て示威運動の届出のある場合一部破壊的分子の煽動等により、当初から公安を害し、一般公衆に対して直接危害を及ぼす危険が合理的に判断して明らかである場合であつても一応届出がある以上は之を実施せしめ、予想された危険の現実に発生したとき始めて之に対する禁止制限の措置をとり得るものとする所謂「届出制」を固執するときは、一波万波を呼び惹いては大規模の騒乱をさえ惹起することが憂慮せられるのであつて、現実に発生した危険を収捨することが不可能となる場合が予想されるのである。従つて一歩進んで右の如き危険性顕著な示威運動は当初から之を禁止するために示威運動の実施につき一応之を公安委員会の許可を受くることを必要とすることは公共の福祉の見地から誠にやむを得ない必要な制限と解すべきであつて、ここに「許可制」公安条例がその本質に於て、何等憲法に抵触するところのない合理的根拠があると考えざるを得ないのである。

(三) 静岡県条例はその第二条に於て「示威運動にして道路を徒歩又は車馬をもつて行進又は占有しようとするものは所轄の市町村の公安委員会(以下公安委員会と云う)の許可を得なければこれを行うことができない」と規定し続いて第三条第一項には「前条の規定による許可の申請は主催者又は責任者から示威運動を行う時間の七十二時間前までに所轄の警察署を経由して当該公安委員会に書面をもつてこれをなさなければならない」と規定しているので、言うまでもなく「許可制」の公安条例である。従つて前記の様に判例の大勢が斎しく「許可制」の各地方公安条例につきその合憲性を宣明するのに拘らず、特に本県条例について原判決の判示するが如く他の公安条例と本質を異にし違憲と断定しなければならないような要素が存在するか否かが検討されねばならない。そして、之を仔細に検討するとき、本条例には毫も違憲の要素がないこと明白であると断じ得るのである。

本県条例は他の地方公共団体の公安条例の本文中に許可申請を要しないものとして掲記するのが通例である「学生、生徒、児童の遠足、修学旅行等学校当局により実施される隊列、冠婚葬祭等の宗教的行事」等については、第七条「この条例を施行するため必要な事項は市町村議会の同意を得て別に公安委員会がこれを定める」に基いて各市公安委員会の制定すべき施行規則に譲り、現に昭和二十三年十二月二十三日静岡市公安委員会告示第九号はその第二条に於て「1、冠婚葬祭神社仏閣の例祭その他宗教的団体の行事2、スポーツ競技その他体育運動3、官公庁公共団体によつて行われる行事4、学校当局により実施される学生、生徒、児童の隊列5、前各号の他示威的行動に亘らない行進及び集会」を本県条例第二条の規定による許可の申請を要しないものとしているが、一方、前掲の高裁判決が合憲性を宣明された東京都、福井県、滋賀県、京都市、広島市条例の他、秋田県、宮城県等大多数の公安条例が、その規定の用語に多少の異同はあるとしても斎しく要許可の対象たる示威運動の「場所」につき比較的広汎概括的に「道路」その他「公共の場所で」と規定するに対し、本県条例第二条は之を厳格に「道路を」と限定して規定している。更に本県条例が附則第九条に於て「この条例は第二条に規定する示威運動を除き、公の集会を禁止若しくは制限し又は公安委員会、警察吏員若しくは地方公共団体の職員に対し公衆の会合政治活動プラカード出版物その他の文書図画の監督検閲の権限を与えるものではない」と規定していることを考えると本条例は要許可の対象を厳重に限定し、示威運動に対して前記の如く公共の福祉の見地から必要且やむを得ない最少限度の事前規制の権限を公安委員会に与えたものにすぎないことが明らかである。而して本県条例第五条第一項は「示威運動が公安を害する惧れがないと認める場合は許可を与えなければならない」と規定していることは公安委員会が示威運動の許可申請に対し、「公安を害する惧れがない」と認める場合は、之を許可することを義務付けられているものであつて、公安委員会の自由裁量によつて本来許可さるべき示威運動をも事前に禁止することを認める趣旨でないことは、文理解釈上からも明白である。尤も「公安を害する惧れのある」と認められる場合に之を事前に禁止することが公共の福祉の見地から必要且やむを得ない措置であることは前記の通りであつて、治安確保の責任を担う公安委員会が予め公安の安寧秩序の紊乱さるべき危険を充分に認識し乍ら、尚且現実の結果の発生するまで拱手傍観しなければならない理由はないと解せざるを得ないのである。しかも本県条例第五条は第二項に於て「許可申請を却下した場合には公安委員会は直ちにその旨及び理由を詳細に当該市町村議会の議長に報告しなければならない」とし、第三項に於て「議長はこれを次の会議において議会に報告しなければならない」と規定して、不許可理由の公表批判の道を開き、以て許否権を与えられた公安委員会が公共の福祉の見地から道路上に於て行はれるべき示威運動に対し必要且やむを得ない最少限度の規制を与えることによつて公安を保持し一般公衆の自由と権利を保障することを目的とする本県条例の趣旨を逸脱するような違法な処分の行はれることを防止するための措置を講じているのである。

結論するに本県条例に所謂「許可」とは、申請に対して示威運動を自由に行う権能を特別に付与すると言う性質のものではなく示威運動の申請に対し、公の権威を以てその適否を確保する確認行為と、その確認を求めるための申請をなさしめて之を受理する行為とを併せ有する性質のものであつて、本県条例の趣旨は公安委員会をして当該示威運動が「公安を害する惧れある」ために当然許すべからざる場合に該当するか否かを、一応弁別判定せしめることとし、そのために許可申請をなさしめるものであつて、実は一の手続的な制限を加えんとするものにすぎず、この目的以外に、公安委員会に、みだりに集会その他一切の表現の自由、勤労者の団体行動権に干渉し之に制限を加えんがために「許可」と言う語を使用しているものではないこと明かであると解せざるを得ないのである。(前掲昭和二八、九、一五広島高裁判決参照)

しかも本県条例第三条、第四条所定の許可申請の手続の難易を考うるに、主催者側に於て準備のため相当の日時を要することを通例とする示威運動に於て、七十二時間前に第四条所定の必要的記載事項を掲記した許可申請書を所轄公安委員会に提出する手続を経由することは、難事とは考えられず、却て本県条例は、第三条第二項に於て「示威運動の行われる区域が二以上の市町村の区域にわたる時は前項の許可申請は主なる開催地の所轄の警察署を経由すれば足りる」と規定して、他の地方公共団体の公安条例に比し、より便宜な手続を創設してさえいるのである。

以上のように見てくると本県条例には、示威運動の事前規制につき、公共の福祉の見地から必要且已むを得ないと認められる限度を逸脱した要素の存在が毫も認められないのである。

(四) 然るに原判決は、「示威運動を制限するには、公共に害を及ぼすことが明かで、しかも制限することが已むを得ない場合でなければならない。故に少くとも、当該運動の実施により「公共にさし迫つた危険を及ぼすことが明かである」と認められる場合でなければならないものと解する」とし、本県条例第五条第一項所定の「公安を害する惧れ」は示威運動の事前規制の基準として、余りに概括的にすぎ、究極において本来許さるべき示威運動までをも禁止することとなるものという外なく、従つてその第六条において公安委員会の許可なくして示威運動を行つた者を処罰する点において、この条例は違憲であるといわなければならない」として本県条例の合憲性を否定した。即ち原判決は「規制の基準の定め方」によつて憲法に対する合非の如何を決定しようと言うのである。然し原判決の見解は明らかに規定の用語の枝棄末節に把われて条例全体としての本質の考察が不充分であり、且法令の本質とその運用の問題を混同した明白な誤りを犯したものと断ぜざるを得ないのである。

本県条例の規制の基準が第五条に於て「公安を害する惧れ」と規定されてあることは、例えば東京都条例第三条所定の基準が「公共の安寧を保持する上に直接危険を及ぼすと明らかに認められる場合」とし(福井県条例、広島市条例等同例)滋賀県条例が第四条に於て「公共の安全に差迫つた危険を及ぼすことが明らかである場合」とあるのに比較すれば、その用語に於て多少正確を欠き、やや抽象的にすぎる点があることは否定できないであろう。然し本県条例に所謂「公安を害する惧れ」と云うのは「公共の安寧秩序を紊乱し、因て一般公衆の権利と自由を侵害する危険性」の意味であることは第一条の規定の趣旨から見ても明かであつて、このような用語の差異は何等条例の木質に差異を来すものではなく、実は修辞上の差異にすぎないのであつて、本県条例の基準が結局前記「公共の安寧を保持する上に直接危害を及ぼすと明かに認められる場合」の基準或は原判決に所謂「公共にさし迫つた危険を及ぼすことが明らかであると認められる場合」の基準の解釈上何等の差異のないものと解すべきことは自明のことであつてこのように解することこそ本県条例の真意を把捉した合理的解釈と信ずる。即ち右の如き単なる用語の異同によつて本県条例につき既に判例上合憲性を明示された前掲各「許可制」の公安条例と本質的な差異を生ずるものではないこと明かであると言はざるを得ないのである。

然るに原判決は「公安を害する惧れ」の如き広汎且抽象的な基準を以てしては、「取締の便宜に重きをおかれ、国民の自由はこれを規制する機関の掌中に握られる範囲が広くなるのみならず、判断する者の考え方により左右され易くなり、又法令は多かれ少なかれ、公共の福祉の要素を持つ関係上旧憲法下において国民の自由が法律の範囲内において認められたのと実質上は異らなくなるに至る」とし、本県条例につき「この条例は示威運動を一般的に許可する建前になつているように見えるがその許可不許可の基準は、概括的な「公安を害する惧れ」の有無に求めているにすぎないから簡単に「惧れ」があると判定されることともなり得るし、又逆に慎重に考えれば考える程「惧れ」なしと断定し得ないことともなり得るのでこれでは本来許され得べき示威運動が当然許されることを望み得ない結果となる」としている。

然し右は全く本県条例の「運用」の問題であつて、之については公安委員会に於て原判決が危惧するような違法な措置のなされないように前記の如く第五条第二、三項に於て不許可理由の公表批判の道が開かれているのであるが、かくの如き条例「運用」の問題と条例の本質が憲法に適合するか否かの問題とを混同することは許されないのである。(前掲広島高裁判決参照)

若し夫れ、法令の「運用」の危険を虞れ、それが悪用、濫用される虞ある故を以て、憲法違反とするならば、刑法を始め、凡ゆる刑罰法規について、然りと言わねばならないのであつて、所謂「公安条例」のみを異別に取扱う理由はないと解せざるを得ない。

右の様に考察するとき原判決の所論はその判断の前提に於て根本的な誤りを犯したものと断ぜられるのであつて、原判決が本県条例につき違憲の判断をし、因て爾余の判断をするを要しないものとして各被告人に対し無罪の判決を言渡したことは、法令の解釈適用を誤つたことに基きその誤りが判決に影響を及ぼすこと明かであるから到底破棄を免れないものと思料し、本件控訴に及んだ次第である。

(被告人辻和雄の分は省略する。)

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